最初の夜





時は新世紀を迎えようとしていた。
地上の人間達は聖なるその夜を楽しげに暖かく迎えている。
その中でも、やはり死に逝く者は存在していて、彼等もその魂を迎えるべく
地上に降りていた。
場所は東京。
時間は零時。
眠らない不夜城。
人々はこの瞬間の快楽と絶望に酔いしれていて。
短い時の中をただ急激に流れ落ちるだけーーーー


「蘭ねえちゃんっ!!」
大きな翼がキレイに羽ばたいて、少年が彼女の目の前に降りてきた。
蘭と呼ばれた乙女は瞳を瞬かせて、彼を見上げる。
視界の端に大きな白い月が映って見えた。
今夜は満月だった。
「コナン君。お疲れ様。」
にっこりと綺麗に微笑まれて、少年は胸を焦がす。
だけど、それを知られぬように彼は無邪気に笑って見せた。
「今夜の魂のいざないは済んだよ。さ、これから報告に行かなくちゃ。
どうする?まだいるの?」
手を引いたが、まだ飛び立つ様子を見せない彼女にコナンは問うた。
彼女は、地上に降りるのが好きだった。
なぜかは知らない。
けれど。
本当にいとおしそうに、彼女はこの世界を見下ろすのだ。
「・・・報告が済んだらすぐに迎えに来るよ。」
「ありがとう。」
何も言わなくても自分の気持ちを分かってくれるコナンに、
蘭は感謝の眼差しを向けた。
「でも!」
コナンは蘭の顔のすぐ傍に顔を寄せて、念を強く押した。
「決して此処から動いちゃダメだよ!?
地上には天使だけじゃなく、魔界の奴等だって昇って来るんだから!
いーい?知らない奴と口利いちゃダメだからね!!」
分かってはいるが、改めて念を押さずにいられない。
蘭はこくりと頷いた。
「待ってるね?」
その綺麗な微笑。
それを向けられると、自分はなんでも言うことを訊きたくなってしまう。
誰にも見せたくない、向けて欲しくないその微笑に、コナンは軽く口付けた。
柔らかな温かい頬に。
「じゃ、すぐに戻ってくるから。」
そう残してコナンは飛び立つ。
少しでも速く天界に着くようにすべての翼を出した。
二対の翼。
何枚かの羽根が舞い降りて、蘭の周りに結界を貼る。
こんなことをしなくても、誰も彼女を傷つけることは出来ない。
それを知っているのに、そうせずにはいられない。
信じてるはずなのに。
大いなる神の力を。
それなのに、僕はこの手で貴女を・・・・たいのだ。
誰の力にも頼らずに。


少年が行ってしまった後、蘭は変わらずに地上を見下ろしていた。
彼女が座っているのはサンシャインビルの屋上の貯水タンクの上。
地上から何百メートルも離れたそこは風がとても強く、またその風は
身を引き裂くような鋭い冷たさだった。
それでも、蘭は平気だった。
寒さは感じない。痛みも無い。
彼女を傷つけることは誰にも出来ない。
何者も、彼女に痛みを与えることは出来ないのだ。
綺麗・・・。
そう想う。
なんて綺麗な街なんだろう?
真夜中過ぎだというのに、街の明かりは消えることが無い。
誰も眠らないのかしら?
そんなわけないのに、地上では明かりが消えることは無い。
まるで闇を恐れるように。いつまでも此処にいる証明を残し続けるかのように。
蘭はそんな地上が好きだった。
綺麗で短い魂を持つ、人間達が愛しくて仕方なかった。
いつでも見ていたい。
ずっと此処にいたい。
そう想う。
その物音は微かなもの。
けれど、蘭はびくりと身を縮ませた。
こんな所に人間が来るはずは無かった。
鍵を壊す音。鎖が外されて、落ちる音。
そうしてこの強い風の中を歩く確かな足音。
膝を抱えて、その場所を見つめる。
それは確かに人間の男だった。
髪の毛が風に煽られて、身を屈めて歩くため、その顔はよく見えない。
死の匂いがした。
その男からは・・・。
ぼんやりと頭の中で答えを見つけた。
この人は自殺をしようとしているんだわ。
屋上へ出る鉄格子を乗り越える。
そうして、金網のフェンスを握りその美しい地上を見下ろしている。
そして何かを叫んでいた。
それなのに、蘭までその声は届いてこなかった。
風が強すぎて・・・。
男は強風に身を屈ませながら、そのフェンスを登り始めた。
蘭の胸の中で何かが音を立てようとしている。
なんだか息苦しさを感じる。
でも、私はどうしたらいいの?
なんだかおかしかった。
でもただ見つめることしか出来ない。
男はその高い高いフェンスを登る。終わるために。
この美しく汚れた地上に落ちるために。
「幸せだな。天使に見守られながらか・・」
「?」
その声は突然で。
蘭はハッと振り返る。
何の気配も無かった。誰もいないはずだった。
でも、そこには一人の男がいて。
思わずフェンスを登る彼と見比べてしまう。
・・・この人は人間じゃない?
「だぁれ?」
「・・・俺を見て、なんとも思わない?」
男はからかうように笑って、蘭を見下ろした。
なんとも思わなかった。
「・・・・・」
「そうか。今時の天使はおもしろくねぇんだな。」
その男は間が悪そうに、肩を竦める。
そうして彼女の周りを取り囲んでいたコナンの落ちた羽根を拾った。
「あっ・・・」
「大天使の結界か?お前・・なにもんだ?」
その瞳が鋭く光った気がした。蘭はなにも答えられずに困ってしまう。
だって、約束を破ってしまった。
さっきコナン君と約束した。
知らない人と口を利いちゃダメだって、言われたのに。
困ったふうに口をつぐんだ蘭を、男はおもしろそうに見下ろした。
変な天使。
それが彼の感想だった。
「さ、そろそろ行くか・・」
「?」
男の声に蘭が顔を上げる。
その時視界に入った。
フェンスを登りきり、まさに今この瞬間に落ちようと両腕を開いて笑っている男。
その声はまだ良く聞き取れない。
蘭はなにか言いたかった。
でも、何も思いつかなかった。
なんとなく逃げ出してしまいたかった。
意味も分からないまま。
分からないから・・・。
「・・・・ろっ!!・・・み・・っ!!」
男が何か叫んでいる。
興奮して笑いながら。
そして泣きながら。
「・・・あみろっ!!・・・なんて・・・」
少しずつその声が蘭の耳を掠める。
それを聞こうとして、でも何かがそれを止める。
予感がする。
聞いてはいけないのかもしれない。
でも知りたい。
あの人間は何を言ってるの?
何にそんなに絶望しているの?
どうして私に彼を救えないの?
どうして?
男は飛んだ。
叫びながら。
笑いながら。
泣きながら。
それをしっかりと蘭の瞳は見つめる。
閉じたいのに、身体が言うことを利かなかった。
初めて。
助けて欲しいと思った。
その瞬間、蘭は闇の中にいた。
真っ暗で何も見えなかった。
何も聞こえなかった。
あの強い風の音も。男の叫びも。自分の中のざわめいた悲鳴も。
とても静かな場所にいた。
闇の中は優しかった。思いかけずにずっと・・・。
「蘭ねえちゃんっ!!」
急に闇の中に強い光が走った。
「ちっ、コナンの連れか・・・」
「?」
小さな呟きがすぐ後ろから聞こえた。
蘭は闇から解放される。それなのに変な気持ちが沸き起こる。
離れたくない・・・どうして?
だけど、その闇は離れた。
その闇の持ち主も呆然と自分の両の手の平を見つめていた。
ああ、この人の両手が私の視界を遮ったんだわ。
そう理解した。
そして・・・感謝する。
それを伝えようと言葉を探した。
その時、すぐに強い力に抱き包まれる。
白くて眩しいコナン君の4枚の翼の中に、抱き締められていた。
「お前・・何をした!?どうして、地上にっ!!」
「・・・何もしてねぇよ・・・誰がお前のお手つきに手ぇ出すか。」
眩しくてよく見えない。男の人は何を言ってるの?
「触れるなっ!!もう二度と彼女に触れるな。・・その時は・・許さない・・・」
コナン君の強い怒気が伝わってくる。どうして?
蘭は分からない。
何を怒っているの?
「・・・なんだ。お前、まだ・・」
笑みを含んだ口調。
コナンは鋭く目の前の男を睨みつけた。
よりに寄って・・・なぜこいつが!
「コナン君・・・」
蘭が心配そうに自分を見上げる。
まだ彼女より高い所で止まっていたコナンは蘭を安心させようと微笑みかけた。
「大丈夫。蘭ねえちゃんは、僕が守るよ?」
「・・・?大丈夫よ・・その人、悪い人じゃないわ」
今度はその男が言葉を失った。
大きく溜め息を漏らして、そうしてコナンの翼の中に守られた彼女の髪に触れた。
「俺の名はシンイチ。忘れるな?・・・蘭」
そうしてその髪に口付ける。
コナンはその手を払おうと光を放った。
それは矢の形を作って、男の手の平に突き刺さる。
赤い血が流れた。
「あっ・・・」
蘭は驚いてそれを見た。心配そうにシンイチと名乗った彼を見上げる。
彼は笑っていた。そうしてなんでもないと笑いかけ、その矢を軽く引き抜いてみせる。
「じゃあな。あれは俺のもんだ。」
そう言った彼の背中から6枚の翼が現れる。
「?」
見たことも無い黒い翼。
銀に光を放つそれは、とても綺麗だった。
そうして彼は飛んで、先ほど人間の男が飛び降りたそこから同じように落ちて行った。
回収するべく黒い魂を求めて。

地上に叩きつけられるのは一瞬。
その一瞬で男の肉体は飛び散った。
華が散ったような血しぶきが新一の胸を熱くさせる。
愚かな人間のなんて美しい一瞬・・・。
冷たいアスファルトにこびり付く、幾つにも分かれた肉片が血の海に沈んでいく。
人通りはない細い路地。
これじゃ発見されるのは昼過ぎかもしれねぇな。
新一は笑みを浮かべた。
そうして、黒い魂を見つける。
彷徨いながら、まだどこかへ逃げようとするそれ。
新一は手を伸ばして囁いた。
誰もいないはずなのに、誰にも聞こえないように小さな声で。
「解放してやるよ・・・」
黒い魂はその甘い誘惑に引き寄せられるように、新一の手の平の中に収まる。
それを新一は握りつぶした。
黒い魂は逃れることも出来ずに、その力の中に溶け込んでいく。
そうして消えた。
もうどこにも何も残さずに。
ただ残るのは人間の形を成さない散らばったの肉片と熱さを失った冷たい
血だまりだけ。
開いた新一の手の平に一筋の黒い液体が残っていた。
それを新一はゆっくりと舐めあげる。
人間の愚かな魂がなぜ、こんなにも美味いのだろう?それは古からの疑問。
そして疑問はもう一つ。
俺はなぜあの天使を守ろうしたのか?
あいつの汚れない瞳が悲しみに痛みにくれるのが嫌だと思ったのだ。
そうしてアイツの両目を塞いでしまった。
考える間もなく、あいつを俺の闇で抱いていた。
・・・こんなはずなかった。
あんなふうに誰かを思う気持ちなど、俺には無い。
それを知っているから驚愕した。
あれは俺の意思でなく、もっと大きな力によって。
あいつは何者だ?
大天使であるコナンに守られ、それだけでなく更に大きな力に守られている。
・・・俺の意思など無視して、その力はあいつを守ろうと働く。
あんな力は知らない。
あんな存在知らなかった。
あれが神の持つ力なのか?
なんて強く、なんて傲慢な・・・。
名前を蘭と言った。
コナンが必死で守ろうとする天使。
・・・そんな価値など見えなかったが。
それでも俺はどこかで喜んでいた。
久しぶりに退屈凌ぎを見つけた。
知らないモノを知りたいと思う欲求。
知らないモノを欲しいと思う欲望。
それだけが俺の心を満たす。
俺は笑っていた。知らず笑みが浮かんでいた。
あんな変な天使を俺は知らないーーーーー

「コナン君・・?」
自分を小さな両腕でしっかりと抱き締める少年に、蘭は戸惑った。
その肩は震えている。
少年のこんな姿を見るのは初めてだった。
「・・・」
少年は抱き締めた腕の力を抜いた。
そうして彼女を安心させるように微笑んでみせた。
「蘭ねえちゃん、大丈夫だった?怖くなかった?あいつに・・何もされなかった?」
「・・・うん、大丈夫。。でも・・・」
「でも!?」
コナンは顔を曇らせた彼女を覗き込んだ。
その瞳にははっきりと焦りの色が滲んでいて。
コナンは不安になる胸の内を見破られぬように、蘭を見つめた。
蘭は申し訳なさそうにコナンを見上げる。
「・・ごめんなさい・・コナン君と約束したのに・・。
知らない人と口利かないって、約束したのに・・私・・聞いちゃったの。
あなただぁれ?って・・・・」
語尾が小さく消えた。
コナンはほうっと大きく息をもらす。
蘭は叱られるのを我慢するように、俯いて目をギュッと閉じていた。
その様子に、笑みが零れた。
誰よりも愛しい蘭。
可愛くて、可愛くてどうしようもなく想う。
こんなに綺麗な存在を、コナンは知らない。
全てを知っているはずのコナンにも、彼女以上に愛しく想う存在など
見つけようがなかった。
額に口付ける。
優しく。この愛しさをすべて込めて。
「?」
蘭がゆっくりと瞳を開ける。その綺麗な瞳に、コナンは笑いかけた。
「蘭ねえちゃんは何も悪くないよ?怒ってなんかない、僕は。」
そう、怒りは自分自身にあった。
彼女を一人にした。
自分の結界を破られた。
すべてはボクの力不足。
時間は流れた。
何十年も何百年も。
それなのに。
あの男に僕はまだ追いつけてないというのだろうか?
「蘭ねえちゃん。帰ろう?神様が心配してるよ?」
「うん。」
彼女は微笑んで翼を広げる。
純白の美しいそれ。
大天使のそれと同じくらい、もしかしたらそれ以上に美しいそれはゆっくりと羽ばたく。
コナンは彼女の温かい手の平を握って天に導いた。
もう離したりしたくない。
きっと誰にも触れさせたくはない。
あの男に負けたくないと思う。
絶対に。


けれど。
再会の時は誰が思うよりもずっと早く来ていた。
場所は池袋。
時間は参時。
街はゆっくりと目覚めていた。

「・・・・冗談だろう?」
男は思わず呟く。
そこには居るはずの無い女の姿。
綺麗な翼を隠そうともせずに、膝を抱いて地上を見下ろしている。
彼女は昨夜のように結界を纏ってはいなかった。
無防備なその姿に一瞬見惚れる。
愚かなほどに、なのにそれ以上に美しい天使の横顔。
それはゆっくりとこちらを向いた。
そうして微笑む。
まるで真珠の様に淡い微笑に、男は絶句した。
同時に、自分の心が歓喜に震えるのが分かる。
願っても無かった機会だった。
今度はどうやってあれを奪いに行こうかとあれこれ考えていたのだ。
その手間が全く省けてしまった。
獲物は、もう目の前にいる。
「・・シンイチ・・」
その柔らかそうな唇が俺の名前を紡ぐ。
なんて、なんて綺麗にその声が響くのだろう?
真っ白なワンピースが風で煽られる。
すらりとした足が覗いた。細くて、綺麗な形をしている。
蘭はそんなこと気にもしないように、俺を見つめていた。
この女は喜んでいる。
純粋に、俺と再会したことを。
なぜ?
なんのために?
まるで悪魔の誘惑とは上手く言ったものだ。
しかし、天使の微笑ほど恐ろしいものもないな。

男は微笑を浮かべて、彼女を見つめた。
あらゆる方法を考える。
どうしたら、この女をズタズタに出来るのだろう?
その真っ白な心ごと。









Written by きらり

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